ぶちぶち日記 -2ページ目

誰のための綾織 / 飛鳥部勝則

昨日、途中経過を書いた本作を読み終えました。 盗作うんぬんは置いておきます。 なんせ、「メモ」が紛れ込むという釈明がぴんときません。 自分が生み出した文章と、他人が書いた文章がわからなくなるものなのか、それからしてシロートにはわかりませぬ。


この作家の著作は、「殉教カテリナ車輪」「バラバの方を」を読みました。 いずれもタイトルからは惹かれないのですが、おもしろいという話を聞いて手をだしました。 結果、面白い面があるような気もするけれど、作品世界に馴染めず楽しめずにいました。 実は、本作もそうでした。


内容が激しいわりに、心に響かないせいだと思います。 前述の2冊のことはすっかり忘れましたが、本作でも、殺人や誘拐に至る動機に愛情があったことが判っても「そうですか」という感じ。 ラストで禁じ手すれすれ(?)のどんでん返しがあっても、「へぇ、そうなんだ」で終わり。 構築してきた世界がパタパタと反転するような鮮やかさがありません。 


冒頭に掲げられた絵が、思ったほど内容に関わってこなかったのも残念です。 おもしろそうだと思う理由の大部分が、実は絵から謎を解く話だと思い込んだからなので。 おまけに、左に書かれた女性が、友人にそっくりで怖い。。。


ミステリとしての評価はわりと高いようですが、どうもこの作家は読者を選ぶようです。 私は、選ばれない方かな。 以降は遠慮しようかな。

例外的に、途中経過

4日間かけて、まだ四分の一ほど残っているとあるミステリがあります。 おもしろいんだかつまらないんだか、読んでいる本人がよくわからないという、妙な一冊です。 飛鳥部勝則の「誰のための綾織」。


物語世界自体が好みから外れていて、どうにも居心地が悪いのですが、ところどころに気を惹かれる表現があり、這うように読んできました。 つ、疲れる。 他の人たちは、どんな感想なんだろうと、読み終わっていないのにググっちゃいました。 


驚愕。


高校生の頃、熱愛読した三原順「はみだしっ子」のパクり疑惑(というか、既に絶版回収の処分が下されていました)に関する文章がぞろぞろ。 そういえば、「目には目を、歯には歯を」に言及したセリフを読んだとき、「はみだしっ子」で読んだのを思い出したのでした。 たしか、サーニンかマックスに仕返しをしているアンジーに、ジャックかグレアムが言っていたと思います。 言われてみれば、思い当たる表現がたくさんありますね。 「愛せないことの罪悪感」とか、「何の責めも負わされなかった」とか。 


「はみだしっ子語録」も持っていたし、トランプも買ったっけな。 その独特の世界が大好きだったのに、読んでいて気づかなかったとは、情けないこと。。。
著者も、ファンだったんでしょうか。 むーん。


挫折しようと思っていましたが、ラストがどんでんだという話もあるので、がんばって読破することにします。 三原ワールドを借りて表現しようとした物語がどこへ行き着くのか、見届けてたいとも思うので。

おまけのこ / 畠中恵

いつにも増してほんわかした、若旦那シリーズ第4弾。 待ってました。


このシリーズは、読む前にとっくりと表紙を眺めます。 鏡に映る幼いころの?若旦那。 何かをくわえた鯉。 おわんの舟に乗った家鳴。 毛皮のパンツをめくられちゃってる家鳴。 お化粧している家鳴。 きれいなおねえさん。 たんこぶを作った男の人。 見返しも忘れずのぞく。 しっかり内容を表す絵なので、物語を想像するのが楽しいのです。 読後、な~るほど♪ともう一度絵を見るのも、忘れちゃなんない楽しみです。


ベテラン虚弱体質の若旦那と、彼を慕い守る妖たちの世界も、そろそろ偉大なるマンネリへ向かいつつあるようです。 でも、このシリーズはそれでいいのです。 水戸黄門みたいなものです。 それでも、今までは端役だった妖にスポットがあたる話(家鳴の大冒険! 屏風のぞきによるカウンセリング!)があったり、まずい菓子しか作れない菓子屋の跡取り息子栄吉にライトがあたったり、奥行きがでてきました。 


独特の擬音や、のんびりとした間合いの文章で、ふんわりまったりとした時間をもらいました。 重い内容の本を読むのが大好きですが、そればっかりはとても読めません。 心を軽くしてくれるこんな一冊も、とっても大切。

震度0 / 横山秀夫

読後の、この虚脱感。 むなしさ。 おそらく、私は警察小説の傑作を読んだのだと思います。 書けている故に、ぐったりです。 


阪神淡路の大震災が起きた日、N県警では警務課長が失踪し、虎視眈々と出世を狙う幹部たちの間に激震が起こります。 互いに弱み強みを握り、相手より優位に立つために、あらゆる駆け引きが繰り返されるのです。


震災の街で、刻一刻と生命が消えていくというのに、そのことに心が動かない幹部たち。 自らその事実に気づき、かすかに傷つきながらも、やはり保身と手柄のことしか考えられない姿にため息がでました。 現実の警察内部がここまで堕ちているのかどうか、そうでないことを祈りたい気持ちです。 とはいえ、ラストでは少々救いも。 世の中、そうそう捨てたもんじゃないはずですよね。 


こうもりに例えられる準キャリアの存在をうまく使っていると思いました。 人物描写は少々誇張しすぎの感がありますが、ほぼ全編にわたって電話や会議の会話で成り立つ小説なので、仕方がないかも。 場面転換は多いけれど、閉塞感を感じつつ読んだのは、動きのない話だったからかな。。。 


震災と物語が密接でないことに、読んでいる間は違和感がありましたが、その乖離こそが実は傑作たるゆえんではないかと思います。 乖離してるんですよ、幹部たちは。

炎の英雄シャープ 第1話 〔ドラマ〕

渇望していたシャープシリーズを観ることができました。 うれしい。。。(ToT)


ナポレオン戦争の時代、孤児院育ちの一兵卒が手柄をきっかけに将校に取り立てられ、次第に実力を発揮していく物語です。 原作はバーナード・コーンウェル。 当時の戦争のあり方、階級のこと、人々の意識、そして軍隊で生きることについてなかなか興味深く描かれています。 女連れで転戦する様子とか、財政難で戦死者からの盗みも普通であることとか、時代によって戦争もいろいろなんですね。


さて、第1話は「Sharpe's Rifles 第95ライフル部隊」(1993)。 抜擢されて初めて部下をもつ身となったリチャード・シャープの最初の成長物語です。 


のっけから総スカンをくらいます。 当時、将校になれるのは原則として貴族のみ。 したがって、同じ身分出身の上司など、はなっから認めるつもりがありません。 シャープはシャープで、ハリネズミみたいにとんがって、意地でも上司としてのプライドを保つべく各種実力行使に及びます。 


しかし、シャープを認める人々のさりげない助言により、少しずつ築かれていく信頼関係。 結束とか絆というにはまだまだながら、互いに一目置いていく姿を見ているのって、幸せです。 


もうひとつ。
戦争ものですから、当然戦闘シーンがたくさんあります。 うれしいのは、昨今はやりのワイヤーアクションなんか、影も形もないことです。 いくら身体能力に優れているという設定でも、重力を無視して飛び回られると、非常に萎えますから。。。


主演のショーン・ビーン目当てなわけですが、ドラマとしても安心して楽しめました。 来週が楽しみ。 ていうか、今週は再放送とビデオ三昧になりそうな予感です。

君の名残りを / 浅倉卓弥

タイムスリップもの歴史小説バージョン?
落雷とともに時代をぐんと遡ってしまった3人の少年少女は、それぞれ同じ時代の別の場所で目覚めます。 大いなる何かの意志を感じ取る彼ら。 いったい何故その時代その場所へ導かれたのか、わからないままそれぞれの場所を見出していきます。。。


主人公たちの名前ととばされた時代から、およそのあらすじはすぐに見当がついてしまいした。 うわ、そういうこと? じゃ、こうなってこうなっちゃうわけ? 大変じゃん! 歴史が不得意な人は、語られるまま物語が楽しめますし、歴史大好きな人は、史実のなか(一部恣意的に変更が加えられていますが)で主人公たちがどう生きていくのか、あれこれ想像しながら読む楽しさが味わえます。


すごい着想です。 タイムスリップというのは定番なわけですが、それをこういうふうに展開する物語があるとは。 ちょこっと「戦国自衛隊」を思い出したり(ある一点で正に共通)しましたが。 


ただ、こういうのを何視点というのか、視点が次々に変わりすぎ、気を抜くといつのまにか違う場所の話になっていたりして、少々読みにくかったです。 この小説には向いているようにも思えるのですが、主人公以外の視点もたくさんあって、中だるみの部分では投げ出しそうになっちゃいました。 相性が良くなかったかな?


もうひとつ、実は肝心なところが納得できませんでした。 彼らがタイムスリップした理由です。 「それは成されねばならぬ。。。」  
歴史パトロールみたいな小説では、変えられた過去を修正するために大活躍、なんて話がよくあります。 なんだかんだいっても、歴史上の出来事は結局必然というか、起こるべくして起こるというか、とにかく歴史の流れには「意志」のようなものがあるという考え方にはよく出会いますし、理解できます。 


翻って、舞台となる一連の出来事が成されるために、何故わざわざ現代の高校生が必要なのかがよくわからないのです。 その時代の人々が成してこそ、歴史といえそうな気がします。 800年間磨かれた剣の道を知る人間が必要? それならもっと適任者がいそうです。 修羅という、また格別な存在まで動員してこの時代を動かそうとするのは何故なのでしょう。 日本の歴史のなかで、この時代はそんなに重要だったでしょうか。 そう考えると、じゃあ、他の時代のさまざまな出来事にも、みなタイムスリップさせられた人々が絡んでいたのだろうか、とかいろいろ考えちゃうのです。 


ラストが切ないだけに、余計に彼らが導かれた理由が気になってしまいました。 そんなわけで、おもしろかったけれど、不満な一冊となりました。

一枚摺屋 / 城野隆

第12回松本清張賞受賞作。 そうなんですか。 私にとっては、非常に物足りない、あっけない小説でした。。。


一枚摺に固執する父親に反発し、戯作の道を歩んでいた文太郎は、ある日出くわした打毀しを一枚摺にしました。 しかし、その内容がもとで父親が捕らえられ、拷問を受けた挙句獄死してしまいます。 何故そこまで責められなければならなかったのか。 その死に裏を嗅ぎ取った文太郎は、もぐりの一枚摺屋となり、調査を開始します。。。


明らかになっていく父の過去と、その死の謎が時代設定に密接に結びついていて、異色の幕末物になっています。 普通、一枚摺というのは、気軽な娯楽系のものであることが多かったらしいのですが、文太郎が作るのは、幕府軍の負け戦を容赦なく市井に知らせるためのもの。 だからモグリなのです。 誰が作っているのか知られてはならないし、売っている現場を押さえられるわけにもいかないのです。 時間との闘いで、一気に人目を引いて、一気に売って、一気に逃げる。 そのあたり、なかなかのスリルで楽しめました。


しかし、物語の進め方がお手軽にすぎるし、描写が単純で、あらすじかダイジェストを読んだようなあっけなさを感じてしまいました。 登場人物たちが、物語を進めるためだけに存在するようで、印象に残らないのが残念です。 もったいない! 

夢のチョコレート工場 [映画]

ロアルド・ダール「チョコレート工場の秘密」を1971年に映画化したものです。 ティム・バートン&ジョニー・デップ版「チャーリーとチョコレート工場 」の先輩。 スカパーのおかげで、いいものを観られました。


いきなり比較しちゃうのもどうかと思いますが。。。
新しいほうが、少し好きです。 教訓的でありながらブラックな所も、この映画のキモでしょうが、ワンカ(ウォンカ)氏の得体の知れなさも大事な要素だと思うのです。 天衣無縫のようで、額に青筋が一本ありそうな癇症を垣間見せるジョニデが、実に面白かったのです。 その点では、新作の圧勝。 ジーン・ワイルダー版は、少し変わり者に見えるだけで、わりとまとも。 「良識」がちらちらしてたような気がします。


映像的には、どちらもヘンテコでとても楽しめました。 原作の描写が細かかったのか、チョコレートの川やキャンディの花の映像はよく似ていました。 でも、新作の方がスケール感を感じたのは、技術と予算の違いでしょうか。 


ウンパ・ルンパも互角。 妙にスタイリッシュで、何もかもお見通し的ご面相で迫る新作はもちろん、オレンジの顔と白い眉の同じ顔に見えて、微妙に違う作り物めいた旧作も、どちらもシュールでキモかわいい。 歌もよし。


なんにしても、早いところ原作を読んでみねば。 時間が足りない!

死神の精度 / 伊坂幸太郎

死が予定される人間に7日間張りつき、その死が「可」か「不可」か上司に報告するのが仕事の死神が主人公です。 もっとも、ほぼ例外なく判定は「可」なのです。。。 


死神は、奇妙な興味で対象人物をじっくり観察し、さっくりと判定を下しますが、生身の私は、対象人物に微妙に感情を動かされ、死にゆく運命に複雑な気持ちを抱いてしまいます。 最後の一行が語られないような構成で、なおさら中途半端に心が揺らいでしまうのですが、実はそれこそが人の生というものなのでしょう。 死神の目を通すからこそ知れる、生のゆらぎのようなもの。


人の心の機微や、言葉のあやがイマイチわからない死神が人とかわす、微妙にずれた会話がなかなか楽しめました。「死神と藤田」「恋愛で死神」「死神対老女」は特に好き。 


ところで、唯一の「不可」の判定は、まあ気まぐれのようなものでしたが、可不可の基準って一体なんなのでしょう? 何のために調査が必要なのでしょう? 最初から最後まで、ずっと不思議に思いながら読みました。 どうでもいいことなのですけれど。

理由 / 宮部みゆき

先日、日テレバージョンとやらいう、映画を劣化させたものを見てしまい、原作を確認したくなっての再読です。 


7年前の初読時の感想は、一応おもしろかったけれど、枝葉が多くてミステリとしては迂遠だし、競売に関しては篠田節子で読んじゃったし、くらいだった記憶があります。 しかし、映像によってミステリ面の興味が満たされた状態での再読は、少し違う感想となりました。 


密だったり疎だったり、濃かったり薄かったり、近かったり遠かったり、知っていたり知らなかったり、あきれるほど大勢の人々の人生で綾織られた社会が、そこにありました。 書かれていたのは、まさしく「理由」。 事件に直接間接に関わった人々がそれぞれに生きてきた結果起きてしまった事件の「理由」。 


当事者たちが事件に関わった直接の理由だけではないのです。 その人物が育った経緯や誕生した状況、さらにはその親が育った環境までもが語られていくのです。 初読ではやや不要にも思われたその部分が、今回は一番胸に響いてきました。 人は、「過去」で成り立っているのです。


480頁(単行本)に、まさしくそのことが書かれています。 
「人を人として存在させているのは『過去』なのだと、康隆は気づいた。この『過去』は経歴や生活歴なんて表層的なものじゃない。 『血』の流れだ。 あなたはどこで生まれ誰に育てられたのか。 誰と一緒に育ったのか。 それが過去であり、それが人間を二次元から三次元にする。 そこで初めて『存在』するのだ。」


人は、自分ではいかんともし難い時の流れの中にあり、事件はその中で起きたのです。 なんて哀しい。 なんてやりきれない。 


無論、人は努力で人生を変えうるものであるし、悪事を運命のせいにして片付けるわけにはいきません。 けれどやはり人にとって「過去」は切り離せないものなのです。


本書に登場する証言者が驚くほど多いのは、単に「ルポルタージュ風」に書きたかったからではないのでしょう。 濃くは「家族の絆」、薄くは「他人の関わり」と、そこに流れる「時」は、そうでもしなければ表現できなかったかもしれません。 人に歴史あり。 そのことを強く実感し、地球上に何億もの人が生きる現実の、重さと深さを想いました。 再読して良かった~。